こんにちは、
セミリタイア研究家
エスカルジュニアです。
「もし、時間が貯めることができて、好きな時にその貯めた時間を使えるとしたら、どう使う?」と妻に聞いてみました。
妻「忙しい時間をやわらげたいときに使うかな」
「それと、楽しい時間や、幸せな時間、きれいなものを見ている時間を延ばしたいな」
エスカルジュニア「貯める時間の方も、暇な時間、つらい時間、嫌な時間を貯めて、幸せな時間に使えるといいかも・・・」
と言った後に気が付いたのですが、
そもそも「暇な時間」の中においてこそ、楽しい時間や、幸せな時間、きれいなものをみつけることができるのでは?
ならば、「暇な時間」を貯めてしまって、その「暇な時間」がなくなってしまったら、見つけられなくなってしまうのでは?
また、「つらい時間、嫌な時間」の中にこそ、自己が生長する機会があるのでは?
ならば、「つらい時間、嫌な時間」を貯めてしまって、その「つらい時間、嫌な時間」がなくなってしまったら、生長する機会を失ってしまうのでは?
それでは、時間を引き出すときの使いたい時間自体がなくなってしまう?
美しい時間、楽しい時間は、一瞬だからこそ輝いている。
その一瞬をとらえるためには、「暇な時間」=「自由な時間」は重要かもしれない。
もし、時間が貯められるならば、「暇な時間」=「自由な時間」の余白の大きさによって、引き出される時間も変わってくるのでは?
「暇な時間」が大きいからこそ、一瞬の美しさに気づくことができるのでは?
「自由な時間」が大きいことによって、楽しい時間や、幸せな時間、きれいなものを見ている時間に立ち会える可能性が高まるのでは?
最後まで読んでいただき
ありがとうございました。
で夢のセミリタイアを。



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