2022年02月06日

『2つの差と3つの疑問について』進捗状況の確認。


こんにちは、

セミリタイア研究家




去年から、『請願』のブラッシュアップを行っています。
長くなってきているので、一度これまでの部分について整理したいと思います。

ほぼ1年前に『請願』の修正を行いました。

そこで、エスカルジュニアの目指す「幸福」の目標地点を発見。

それは、
『究極的には、すべての執着を捨て、
「幸福=正しく生きる」』

この「幸福」の目標地点と現在地点との間の距離はどの位あるのだろうか?
そう考えたときに2つの差と3つの疑問があると考えました。

〇1つめの差、
『現時点での真善美についての認識』と『目標地点となる普遍的な真善美(正しい「人生の美しさ」)についての認識』の差。
この認識の差には、同時に2つの疑問も浮かぶ。

●1つめの疑問。
普遍的な真善美(正しい「人生の美しさ」)とは何か?

●2つめの疑問。
普遍的な真善美(正しい「人生の美しさ」)の判断の主体となる自分は、正しいといえるのか?

〇2つめの差、
『現時点での執着度合い』と『目標地点となる執着0』との差。

●3つめの疑問。
執着を0にすることは可能なのか?

これら『2つの差と3つの疑問について』の現在の進捗状況を確認したいと思います。
現時点では、
{●1つめの疑問、普遍的な真善美(正しい「人生の美しさ」)とは何か?と
1つめの差、『現時点での真善美についての認識』と『目標地点となる普遍的な真善美(正しい「人生の美しさ」)についての認識』の差。の内の『目標地点となる普遍的な真善美(正しい「人生の美しさ」)についての認識』について}
まで進んできています。

概要は、下記。

●1つめの疑問。
普遍的な真善美(正しい「人生の美しさ」)とは何か?

「善」と「真」と「美」について考えていくと
「善」の多様化、分断がおきている。
一方、支配者は統一化に向かっている。
おそらく、支配者にとっては「善」の多様化、分断は、好都合だったのでは。
グローバルでない「善」が覇権争いや分断、多様化されている間に、いつの間にか支配者は国境をこえて少数になっていた。
「支配者と被支配者の関係」において、支配者の武器である「真」と被支配者の基準である「善」のかい離が拡がっていると考える。
かい離がそのまま現在の格差社会として急速に拡がっている。
現在のグローバルな少数の支配者に対抗するために被支配者に必要なのは、
『「善」の統一』。

グローバルに統一された「善」の基準をつくり、グローバル資本家に対抗すべきだと考える。
そして、「愛」と「幸福」という2つの別のルートを通して、個人的善について考えることから、『「善」の統一』を目指してみた。

まず、「愛」について考えると、普遍的善「利己的(自己)愛」「利他的(自己犠牲の)愛」と普遍的善「命を大切にする」に到達する。
これら、普遍的「個人的善」が『「善」の統一』の主要な要素といえる。

さらに、普遍的「愛」と普遍的「善」である「命を大切にする」は、2つの「理念」に通じる。
「利己的(自己)愛」「利他的(自己犠牲の)愛」=「博愛」
「利己的(自己)愛」「利他的(自己犠牲の)愛」のバランス=「平等」
そして、普遍的「善」である「命を大切にする」は、「生存権」

このルートは西洋的?

次に「幸福」について考えると、普遍的善「執着を捨てる」と普遍的善「命を大切にする」に到達する。
普遍的善「執着を捨てる」の最終段階は普遍的善「無我」で、究極的には、無我=利他になる。
これら、普遍的「個人的善」が『「善」の統一』の主要な要素といえる。
「無我=利他」は、自我への固執をすてるため「自由」であり、自分以外すべて自分と同じなので「平等」であると考える。
そして、普遍的「善」である「命を大切にする」(生存権)が、普遍的「無我」への防波堤になる。

このルートは東洋的?

「愛」と「幸福」を切り口にして、『「善」の統一』を試みた。

その結果は、
主要な普遍的善は、
「執着を捨てる→無我」「利己的(自己)愛」「利他的(自己犠牲の)愛」「命を大切にする」
そして、これらから、共通する理念「生存権」「自由」「平等」「博愛」に至ると考える。
これが、グローバルな少数の支配者に対抗するために被支配者の統一された「善」
この統一された「善」の基準を用いて、グローバル資本家に対抗すべきだと考える。

普遍的な真善美(正しい「人生の美しさ」)とは何か?
ひと言でいうと
⇒「愛」と「幸福」を切り口にした、共通する理念「生存権」「自由」「平等」「博愛」

これをもとに、1つめの差についてみると

〇1つめの差、
『現時点での真善美についての認識』と『目標地点となる普遍的な真善美(正しい「人生の美しさ」)についての認識』の差。
ローカル的な特殊の「真善美」は、普遍的な「真善美」とはいえない。
そして、社会の変化によって一体化した「真善美」は、動的に変質していくため、普遍的な(一体化した)「真善美」は、存在しないと考える。
ただ、真のみ、善のみ、美のみでの普遍性はあると考えるものの、普遍的「真」・普遍的「善」・普遍的「美」の統合がされていないため、普遍的とはいえない。
仮に統合されたとしても、その真善美が、社会のさらなる変化によって、動的に変質していくならば、まだ、普遍に至ったとはいえない。
ということは、『目標地点となる普遍的な真善美(正しい「人生の美しさ」)』は、まだ存在しないことになる
その証拠に、今の世界が未だ理想郷とはいえないからだ。
なので、目標地点の定まらない場所へと出発することになる。

ただ、「愛」と「幸福」を切り口にした、共通する理念「生存権」「自由」「平等」「博愛」をもとにした
『「善」の統一』が目標地点に近いポイントとなる。

ここまでが『目標地点となる普遍的な真善美(正しい「人生の美しさ」)についての認識』
そして、前述のように『現時点での真善美についての認識』については、まだ、記事にしていない。
つまり、目標地点は決まったが、出発地点は未確認といった状況。

ということで、今年に入ってから、エスカルジュニア個人の『自由』を出発点にして
〇1つめの差、のうちの
『現時点での真善美についての認識』
〇2つめの差、
『現時点での執着度合い』と『目標地点となる執着0』との差。
●3つめの疑問。
執着を0にすることは可能なのか?
について、考えてきています。

残りの
●2つめの疑問。
普遍的な真善美(正しい「人生の美しさ」)の判断の主体となる自分は、正しいといえるのか?
については、その後にみていきたいと思います。

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

で夢のセミリタイアを。

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posted by エスカルジュニア at 11:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | ○「請願」と2030年の目標
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