2021年02月03日

支配者の「幸福」と被支配者の「幸福」

こんにちは、

セミリタイア研究家


ところで、この提示される「善」は、被支配者の側にとっての基準。

「幸福」に限って考えると、敗者の側からの「幸福」ともいえる。
ならば当然、勝者の側からの、つまり支配者の側の「幸福」もある。
支配者の「幸福」だ

1%の支配者の「幸福」(快楽)ともいえるのかも。
これまでみてきた、被支配者の「幸福」はその他99%の人の「幸福」ともいえる。

多くの人は、支配者の「幸福」(快楽)を求めたがる。
支配者の「幸福」は、快楽的なものが多く含まれ、その大きさゆえに「幸福」の大きさと見間違う。

支配者の「幸福」は、競争の結果、承認の結果であり、他者から奪った末の結果ともいえる。
なので、なかなか手に入らないし、求めてもなかなか到達することはできない。
頂点に立つまで終わりがない。
欲望の大きさゆえに頂点に立っても終わらないかもしれない。
「幸福」(快楽)の維持、地位の維持も必要になる。

一方、被支配者の「幸福」には、支配、利用されるリスクをともなう。

どういうことか?

「幸福」を切り口にすると、普遍的善「執着を捨てる→無我」と普遍的善「命を大切にする(生存権)」に到達する。

●執着を捨てる(無我)
●命を大切にする(生存権)

これは、支配者にとって都合がいい。

●執着をなくす⇒分断させる、連帯させない
        安い労働力として利用する
●命を大切にする⇒治安の維持、大人しい労働者にさせる

「善の統一」へのルートは、2つのルートとも出発点は、個人的善。

なので、統一される(支配と被支配の関係内での)普遍的善は当然、支配者、被支配者双方にとって共通のものになる。
これを被支配として提示するか否か、支配者の武器として利用するか否かは上記のように別問題。

この「被支配の提示としての善」と「支配者の武器としての善」の「妥協点」がその社会の「真善美」につながっていくと考える。

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

で夢のセミリタイアを。

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札幌で腸内会活動中です。







posted by エスカルジュニア at 10:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | ○「請願」と2030年の目標
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