2021年01月26日

2つめのルートは、「幸福」を切り口に考えることから、『「善」の統一』を目指す。

こんにちは、

セミリタイア研究家


前回、普遍的「愛」を考えていく中において、普遍的「愛」には、利己的な「(自己)愛」と利他的な「(自己犠牲の)愛」がある。
「(自己)愛」の極限には、自己の「命」が、「(自己犠牲の)愛」の極限にも、自己の「命」がある。
「利己」「利他」のそれぞれの極限に、自己の「命」がある。
とした。

今回、「幸福」を切り口にして個人的善について考えることから、『「善」の統一』を2つめのルートから目指す。

個人の「幸福」は、基本的には、利己的といえる。
利己的なので、普遍的「愛」でいえば、「(自己)愛」寄りだろう。

ただ、全て利己的で、果たして「幸福」といえるのだろうか?

利他的も含めて「幸福」ととらえる人が多いのでは。

「幸福」は出発点は利己的であり、利己的寄りだとしても利他的まで拡がる領域にあるのではないだろうか?

ならば、「幸福」は、利己的と利他的のバランスが重要ともいえるのではないか。

「幸福」=利己的⇔利他的

利己的と利他的の間で動的に日々揺れ動いている。

「幸福」は、「快楽(消費)」とも重なっている。
「幸福」「快楽(消費)」のダウンサイジングによって、自己の幸福が小さいもので足ることを知るならば、利他的な方向へと動きやすくなる。

ここで、「幸福」「快楽(消費)」のダウンサイジングのために必要な、普遍的善「執着を捨てる」について考えてみる。

「執着を捨てる」にも段階がある。

少欲
  ↓
無欲
  ↓
無我

無欲までの段階においては、「執着を捨てる」ことに執着しているともいえる。

無我は、自己への固執を打ち破ることになる。

これは、「自由」といえないだろうか?

無我=自由

各段階ごとにみてみる。

普遍的善「執着を捨てる」の前段階の場合

「自己の強い快楽(消費)」>個人的善(利他)

強い利己>利他


普遍的善「執着を捨てる」の最終段階、普遍的善「無我」の場合

普遍的善「無我」=個人的善(利他)

無我=利他ということは、他のものは全て自分と同じ。
命をもっているものはつながっているという感覚といえるのかも。
利己=利他だから。これは、「平等」ともいえるのでは。

利他がいきすぎるとどうなるか。
利己<利他となり、究極的には、命と引き換えになることにつながっていき、究極的には死だ。
「幸福」が脅かされる。

と同時に別の普遍的善「命を大切にする」と矛盾してくる。

普遍的善「命を大切にする」は、普遍的善「無我」の行き過ぎを防ぐ防波堤ともなる。


ところで、いずれ訪れる死の瞬間において、普遍的善「無我」=個人的善(利他)を超えていたとしたら、その時の「幸福」とはどのようなものか想像してみる。

一方において、普遍的善「無我」に達し、もう一方で個人的善(利他)を超え、普遍的善「(自己犠牲の)愛」に達した場合だ。

普遍的善「無我」=普遍的善「(自己犠牲の)愛」において、死は、普遍的善「無我」の執着なき死、または、普遍的善「(自己犠牲の)愛」の死のどちらかの死となる。

これは、もしかすると「幸福」であり『涅槃』なのではないか。(決して死をすすめている訳ではない)

「幸福」について考えると、普遍的善「執着を捨てる」と普遍的善「命を大切にする」に到達する。

「執着を捨てる」ことで、究極的には、無我=利他になる。

「無我=利他」は、自我への固執をすてるため「自由」であり、自分以外のものもすべて自分と同じなので「平等」であると考える。
そして「命を大切にする」が、無我への防波堤になる。

幸福」について考えることから、普遍的善「執着を捨てる」の最終段階「無我」と普遍的善「命を大切にする」(生存権)が現れ、その過程には、「自由」「平等」が含まれる。

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

で夢のセミリタイアを。

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札幌で腸内会活動中です。







posted by エスカルジュニア at 16:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | ○「請願」と2030年の目標
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