こんにちは、
セミリタイア研究家
エスカルジュニアです。
記事への質問「誰かがこれを普遍的真とするとか善とするとか美とすると決めなきゃいけないと思うがだれが決める?どうやってその人を選ぶ?」について。
普遍的「善」に対して、「だれが決める?どうやってその人を選ぶ?」について考えていく。
前回の普遍的「美」と同様に
普遍的「善」についても、具体的に例を挙げてみたい。
普遍的「善」についても、具体的に例を挙げてみたい。
例えば、「命を大切にする」という考え方は、道徳的で、一見、普遍的といえそうだ。
時代をさかのぼってみる。
殉死
戦(いくさ)
切腹
戦争
社会、時代によって、あるいは現代においてすら「命を大切にする」という考え方は果たして、本当に普遍的「善」といえるのか?
エスカルジュニアは、「命を大切にする」は、普遍的「善」と考える。(今回は、人間の「命」に限定)
でも、上記の例を見る限り、「命を大切にする」という考え方は、普遍的ではないようにも感じる。
「命」は個人にとって最も大切にもかかわらず、どうしてそうみえるのだろうか?
おそらく「命を大切にする」よりも上位の普遍的「善」が優先されているということではないだろうか?
つまり、「命を大切にする」以上の普遍的「善」が存在する、または存在していたということか?
ということは、複数の普遍的「善」が同時並行的に存在するということなのだろうか?
また、「命を大切にする」以上の普遍的「善」とは一体何か?
普遍的「善」である「命」を超える普遍的「善」は、どういった時に現れるのか?
について考え、最後に、普遍的「善」に対して、「だれが決める?どうやってその人を選ぶ?」について答えていく。
普遍的善である「命」を超える普遍的善が現れるときがある。
「命を大切にする」という普遍的善の基準を超える瞬間だ。
人は、自分の命を顧みない行動をする時がある。
たとえば、おぼれている子供を助けるために海へ飛び込んだ。
とか、ホームから転落した人を救おうとした。
といった時だ。
子供や家族、知人でもない人を助けようとする行動。
この神のようにさえみえる行動は、大切な自分の「命」を差し出す「(自己犠牲の)愛」といえる。
この「(自己犠牲の)愛」は、おぼれている子供を見た瞬間にその飛び込んだ人に現れた「命」を超える普遍的「善」なのではないか?
また、上記例にあった、殉死、戦(いくさ)、切腹はどうだろうか?
忠誠を誓った主君に対する「仁義」や「忠義」といった、封建時代の象徴的ともいえる、「命」を超える「善」だったのではないか?
封建時代にとっては、普遍的善としての「命を大切にする」と普遍的(と信じていた)善としての「仁」が同時並行的にあったのでは。
この普遍的善「(自己犠牲の)愛」や普遍的善「仁」が普遍的善「命」をこえる社会制度や瞬間があると考える。
普遍的「善」である「命を大切にする」をこえる「(自己犠牲の)愛」や「仁」は、特殊な状況下で生じやすく、時代、社会の変化で移り変わっていくので、普遍的とはいえないのではないか?
おそらく、これらは、普段は、普遍的「善」である「命を大切にする」の元にあって顔はださず、特殊な状況下で現れ、なくなることはないので、「(自己犠牲の)愛」も「仁」も普遍的といえる。
それは、支配者と被支配者の関係性がある限り、被支配者である人間の思考には、変わらない部分があると思うから。
一方で、この普遍的「善」である「命を大切にする」をこえる「(自己犠牲の)愛」や「仁」は、支配者に利用されやすいともいえる。
過去の歴史をみると、封建時代の「仁義」「忠義」の他にも戦争時に現れる「愛国」や資本主義制度下での「愛社」といったように支配者に作り出された「愛」によって、普遍的「善」である「命を大切にする」を超えるものと思い込まされるときがあるようだ。
この「(自己犠牲の)愛」や「仁」の部分が、自分にとって最も大切な「命」をこえる「神」とも見え、かつその「神」の部分が、支配者に重なってみえてしまうのではないか。
広義には、大切なものを差し出す行為とも利他的ともいえる「(自己犠牲の)愛」や「仁」が支配者に利用され「命」に影響を与える可能性がある。
つまり、自分の最も大切な「命」を基準にして、社会的あるいは、瞬間的に表れる、普遍的「善」を自分が主体的に判断するのか、あるいは、支配者に利用されてしまうのかという領域があるのではないか。
また、善は、支配者に対抗するための被支配者による基準ならば、普遍的「善」は、複数存在するはずだ。
なぜなら、歴史を通じて、被支配者の方が圧倒的多数だから。
多様な普遍的「善」や「善」が存在するのではないだろうか。
その多様な普遍的「善」の内には、普遍的「善」である「命を大切にする」という基準を超えるものも超えないものもあると思う。
また、普遍的ではない「善」も多数あると思う。
普遍的「善」は、だれがつくるのか、どうやって選ぶ?に戻る。
普遍的善を決めるのは(だれが決める?)は、人類(被支配者)。
どうやってその人を選ぶ?は、支配者が選ぶ。(敗者を決めるのは勝者だから)
多様な、普遍的「善」や普遍的ではない「善」を、人類(被支配者の歴史から)が用意するが、
状況によって、その複数の普遍的「善」や「善」の中から、どの「善」を選ぶかは、自分の選択になる。
普遍的「善」である「命を大切にする」を超えるもの、例えば「(自己犠牲の)愛」や「仁」等が、瞬間的に現れたときには、その普遍的「善」の中から、状況に応じて、自分が決め、自分が選ぶ。
その理由は、自分の大切な「命」が基準となるから。
最後まで読んでいただき
ありがとうございました。
で夢のセミリタイアを。



札幌で腸内会活動中です。
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コメントありがとうございます。記事では、「どうやってその人を選ぶ?」ではなく、「どうやって、誰が、その普遍的善を選ぶ?」への答えになってしまいましたね。改めてお答えすると、普遍的善はあり、普遍的善を決めるのは(だれが決める?)は、人類(被支配者)。どうやってその人を選ぶ?は、支配者が選ぶ。(敗者を決めるのは勝者だから)になります。普遍的善や善は既に存在していて、それらの中から選ぶのが「個人」。そして個人的善の連なりの中から普遍的善になるものもあるかもしれません。