2021年01月12日

前回記事への質問「誰かがこれを普遍的真とするとか善とするとか美とすると決めなきゃいけないと思うがだれが決める?どうやってその人を選ぶ?」について。


こんにちは、

セミリタイア研究家


前回記事への質問「誰かがこれを普遍的真とするとか善とするとか美とすると決めなきゃいけないと思うがだれが決める?どうやってその人を選ぶ?」について(その1)。

エスカルジュニアは、社会、制度で区切った一体としての「真善美」は普遍的ではないものの、真のみ、善のみ、美のみでは普遍的な部分があると考える。

質問への返答は2つある。
1つは、普遍的「真」、普遍的「善」、普遍的「美」それぞれに対して、「だれが決める?どうやってその人を選ぶ?」

もう1つは、社会、制度で区切った一体としての普遍的「真善美」が仮に誕生したとしたら、これに対して、「だれが決める?どうやってその人を選ぶ?」

この2つに分けることにする。

まず1つめの、普遍的「真」、普遍的「善」、普遍的「美」それぞれに対して、「だれが決める?どうやってその人を選ぶ?」について。

最初に、普遍的「美」について考えてみる。

普遍的「美」については、主体の主観による断片的なものが寄せ集まって、統合されていった結果が普遍的になっていくと考える。
そして「美」の対象は自然、音楽、絵画、建築、文学、精神性等幅広く存在する。

より普遍的「美」に近そうな「自然」を例にみてみたい。

例えば、富士山やナイアガラの滝やオーロラを万人が美しいと考えるならば、一見、普遍的といえそうだ。
もちろん、これらを美しいと思わない人もいるだろうし、これら富士山やナイアガラの滝やオーロラは、天変地異等によってなくなってしまうかもしれない。
同じ自然の美しさも社会によって、時代によって、制度によって違ってみえるかもしれない。
ならば、普遍的とはいえないかもしれない。

では、地球や、夜空の星の美しさは?
地球や、夜空の星はなくならないと考えるならば、この美しさは普遍的かもしれない。
でも、もし、地球がなくなってしまったとしたら・・・。
地球とともに人類も消滅してしまうので、消滅前の人類にとっては、地球の美しさは普遍的美だったといえそうだ。
(ただ、現実問題として、地球の美しさを地球の外からみることはできないので、別の方法を使うことになると思うが・・・)

地球が滅ぶときに、他の生き物も滅ぶことになるが、他の生き物も地球は美しかったと考えるのだろうか?
そう思っていたのならば、地球の美しさは、人類をこえた普遍的美だったともいえる。

(夜空の)星は、地球がなくなり、人類が滅亡しても存在するので、普遍的美かもしれない。
地球に住んでいた人類がいなくなった後、火星に住む火星人がいたとしたら、彼らにとっては、(夜空の)星は普遍的美かもしれない。
ただ、将来、火星の異常気象によって夜空がなくなってしまったら、美しさを認識できなくなってしまうため、普遍的美とはいえない。

場所的な制約、接触への制約、時間的な制約等により、普遍的な美があったとしてもその美へ到達できないことの方が圧倒的に多い。
自然の他にも「美」はいたるところにあり、その中に普遍的な美が含まれていると考える。

普遍的「美」は誰が決めるのか?に戻る。

美は、主観的で、主観によって考え方が違うし、社会、時代、制度によって変わってくる。
(主観の主体)自己
(社会、時代、制度)家族、北海道民、日本人、東アジア人、人類、生物(動植物)、火星人、宇宙人等。
封建制度下(鎌倉時代、室町時代、江戸時代)、資本主義制度下、未来の制度下、別の惑星に存在する制度下等。

質問元の記事では、人間に限定しており、そして、いただいた質問では、「誰が決める、どうやってその人を選ぶ?」ということは、人間の主観に限定した普遍的「美」についてということになる。
なので、『普遍的「美」を誰が決めるか?どうやってその人を選ぶか?』への答えは、普遍的美を決めるのは「人類」であり、さらにその人類も、「社会、時代、制度」をこえた人類といえる。

普遍的「美」といっても、人類限定という意味において、生物(動植物)、火星人、宇宙人等が除外されるため、厳密には、普遍的といえるかどうか分からないが、時代、社会を超えて多くの人類が合意する「美」は存在すると考える。

ただ、普遍的「美」への到達には、様々な制約があるために普遍的「美」へ到達することは困難を伴う。
隠れていて、なかなかその顔をみることができない。

歴史を振り返って見たときに思うことがある。怖いのは、普遍的「美」を装ったものを誰かが決めたり、その普遍的「美」を装ったものを決める人を正当な装いで選ぶことで、普遍的「美」を装って支配の象徴とされてしまう危険性があることだと思う。

長文になってしまったので、普遍的「真」、普遍的「善」それぞれに対して、「だれが決める?どうやってその人を選ぶ?」と

もう1つの、社会、制度で区切った一体としての普遍的「真善美」が仮に誕生したとしたら、これに対して、「だれが決める?どうやってその人を選ぶ?」については、次回以降へ。

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

で夢のセミリタイアを。

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札幌で腸内会活動中です。







posted by エスカルジュニア at 16:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | ○「請願」と2030年の目標
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