こんにちは、
セミリタイア研究家
エスカルジュニアです。
について。
エスカルジュニアは、普遍的な「真善美」はまだないと考える。
支配者と被支配者の妥協により、「真善美」が利用されている限りにおいては、普遍的な「真善美」はないと思う。
つまり、社会、制度で区切った「真善美」は普遍的とはならず、ローカル的で特殊な「真善美」になる。
また、社会の変化によって一体化した「真善美」は、動的に変質していくため、普遍的な(一体化した)「真善美」は、存在しないと考える。
普遍的な真善美はまだないと考える一番の理由がある。
それは、今の世界が理想郷とはいえないからだ。
普遍的な真善美があるならば、理想郷ができているはずだ。
普遍的な真善美があるにもかかわらず、理想郷が実現できていないならば、人類の怠慢だ。
では、真・善・美に普遍性はないのだろうか?
真のみ、善のみ、美のみでの普遍性はそれぞれあるのではないかと思う。
まだ、2500年ほどの歴史の宗教が多く、支配の歴史も人類誕生から現在までの期間に比べてはるかに短いので、善も真も普遍的とはいえないかもしれないが、それでも、支配者、被支配者の存在が続くかぎりにおいては、支配者の真、被支配者の善それぞれには、普遍的な部分が存在しているのでは?
その理由として、支配者である人間の思考、被支配者である人間の思考それぞれには、変わらない部分があると思うから。
美についても、自然に対する畏怖の中に、自然の作り出す美も含まれているならば、美に対しても、普遍的な部分は存在すると思う。
エスカルジュニアは、社会、制度で区切った一体としての「真善美」は普遍的ではないものの、真のみ、善のみ、美のみでは普遍的な部分があると考える。
ただ、仮に現時点で普遍的な真のみ、普遍的な善のみはすでに存在しているにもかかわらず、理想郷となっていないならば、それは、
その普遍的「真」と普遍的「善」の妥協点づくりに失敗しているだけなのか?
妥協点をつくる気などないのか?(理由は統治に不都合なため)
つまり理想郷が実現していないのは、
1、個別の真のみ、善のみにおいて普遍性がどちらも未だ完成していないか、どちらか一方のみが未完成。
2、個別の真のみ、善のみにおいて普遍性が完成していたとしたら、その普遍的「真」と普遍的「善」の妥協点づくりに失敗している。
3、個別の真のみ、善のみにおいて普遍性が完成していたとしたら、統治に不都合なため、その普遍的「真」と普遍的「善」の妥協点をつくる気がない。
のどれかではないだろうか?
いづれにしても、現時点において、普遍的な真善美はないということになる。
普遍的な真善美はあるのか?
という疑問に対して整理すると、
ローカル的な特殊の「真善美」は、普遍的な「真善美」とはいえない。
そして、社会の変化によって一体化した「真善美」は、動的に変質していくため、普遍的な(一体化した)「真善美」は、存在しないと考える。
ただ、真のみ、善のみ、美のみでの普遍性はあると考えるものの、普遍的「真」・普遍的「善」・普遍的「美」の統合がされていないため、普遍的とはいえない。
仮に統合されたとしても、その真善美が、社会のさらなる変化によって、動的に変質していくならば、まだ、普遍に至ったとはいえない。
ということは、『目標地点となる普遍的な真善美(正しい「人生の美しさ」)』は存在しないことになる。
なので、認識の差については、行き先不明のまま、目標地点へと出発することになる。
次回は、2つ目の疑問について考えていく。
最後まで読んでいただき
ありがとうございました。
で夢のセミリタイアを。



札幌で腸内会活動中です。
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だれが決めるんだ?どうやってその人を選ぶ?
コメントありがとうございます。
長文となりそうなので、記事にして返信させていただきます。