2020年01月03日

人生に「対等願望」が標準装備され、「優越願望」のみを追求できるならば、芸術的で、愛情に満ちた社会に向かうのではないか?



こんにちは、

セミリタイア研究家


毎月読んだ本の中で面白かった本について
記録しています。
9月〜12月は10冊読みました。

ジャンル毎分類(2019年累計)
12月まで累計61冊
●自由な生活(余暇)13冊(21.3%)
●真善美愛 27冊 (44.3%)
  ○課題図書 6冊
●人類の生長のための活動 21冊 (34.4%)

9月〜12月に読んだ本の内で面白かったのは、


(解説)より
「人間の『気概』には、二種類あるのではないか、というのがフクヤマ氏の考えである。
それは、他人よりは優れているということを示すためには命も惜しくないという『気概』(優越願望)と他人と同等に認められたいというリベラルな民主主義の基本をなす『気概』(対等願望)」

「哲学的かつ理論的な矛盾がある。すなわち、みんな平等でいいというのならば、そこには偉大なる芸能も偉大なる学問もないことになってしまう。
みんなと同じでいいというのならば、他に優越しようという気がなくなった社会である。
ニーチェの言葉を使えば、奴隷の社会と同じなのである。
(奴隷というのは、『気概』を失ったために降参した人たちの社会なのである)
すなわち、リベラルな民主主義社会というのは、お互いの権利を認めているようでありながら、究極的には奴隷の社会を志向するという危険を本質的に備えているわけである」

「『規律としての余暇』自己規律としての余暇を追求することは、人間が奴隷のごとく安価な満足をすることではなく、得にもならないことに一生懸命努力するということ
(それによって、たしかにそれを実行した人が傍目にも立派になるという世界があり得るということ)を指摘したものである。
これは、歴史が奴隷の民主主義に向かうというヘーゲルやニーチェの恐れに対する抜け道というヒントともなろうかと思われる」


エスカルジュニアの自己に課す、そして社会に願う請願は

「幸福=自由な生活(余暇)+真善美愛+人類の生長のための活動」

現在、セミリタイア生活により、自由な生活(余暇)を享受している。

個人(ミクロレベル)で、この内の『自由な生活(余暇)』を『自己規律としての余暇』として追求していくことは、リベラルな民主主義社会が奴隷の社会を志向するという危険からの逃げ道となりうるのかも。

セミリタイアによる『自由な生活(余暇)』が、単に資本主義社会においての奴隷状態からの脱却ならば、『自己規律としての余暇』が、奴隷の民主主義からの脱却という意味で、人間本来に備わる、『気概』の掘り起こしなのかもしれない。

一方、マクロ的に空想している『1億総セミリタイア社会計画』と請願『幸福=自由な生活(余暇)+真善美愛+人類の生長のための活動』の組み合わせによって、奴隷の社会を志向する危険からの逃げ道となりうる。

『1億総セミリタイア社会計画』の流れでいくと、AI、ロボットの奴隷化により、人間は、労働から解放され、そこから生じる、『自由な余暇(時間)』を使って、『真善美愛』『人類の生長のための活動』を行うことに向かうことになる。

たとえ、『自由な余暇(時間)』が『自己規律としての余暇』にまで達しなくても、自然と奴隷の社会を志向する危険からの逃げ道となりうるのかもしれない。

つまり、『1億総セミリタイア社会計画』に含まれるベーシック・インカムとベーシック・インカム市場により、『気概』(対等願望)がデフォルトの社会になっていくならば、世界は、ごく自然に、あたりまえに、人間にとって『気概』(優越願望)を表現する場となるのではないか?

人生に「対等願望」が標準装備され、「優越願望」のみを人びとが追求できるならば、もっと芸術的・文化的・娯楽的で、そして愛情に満ちた社会に向かうのではないか?

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

で夢のセミリタイアを。

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posted by エスカルジュニア at 10:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | ●セミリタ生活(少欲)
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