2019年03月02日

「死についてあらかじめ考えることは、自由について考えることにほかならない」



こんにちは、

セミリタイア研究家


毎月読んだ本の中で面白かった本について
記録しています。
2月は6冊読みました。

ジャンル毎分類(2019年累計)
2月まで累計16冊

●自由な生活(余暇)2冊(12.5%)
●真善美愛 8冊 (50%)
  ○課題図書 3冊
●人類の生長のための活動 6冊 (37.5%)

今年新たに設定した月1冊の課題図書は下記。

1、「ファウスト」ゲーテ  × 第一部・第二部2冊(1月)
2、「ゲーテとの対話」エッカーマン
3、「哲学史」ヘーゲル
4、「資本論」マルクス
5、「パンセ」パスカル
6、「エセー」モンテーニュ 1
7、「方法叙説」デカルト
8、「エティカ」スピノザ
9、「純粋理性批判」カント
10、「桜の園」チェーホフ
11、「聖書」
12、「歎異抄」

2月は、この内の6、エセー(1) [ ミシェル・エイクム・ド・モンテーニュ ]を読みました。

「どこで死が待ちかまえているのか、定かでないのだから、こちらが、いたるところで待ち受けよう。
死についてあらかじめ考えることは、自由について考えることにほかならない。
死に方を学んだ人間は、奴隷の心を忘れることができた人間なのだ。
いのちを失うことが不幸ではないのだとしっかり理解した者にとっては、生きることに、何の不幸もない。
死を学ぶことで、われわれは、あらゆる隷属や束縛から解放されるのである」

勉強の目的であるはずの知っているとか、知らないとかはなんなのか?
勇気、節制、正義とは何なのか?(中略)、放縦と自由とのあいだには、いかなる差異があるのか?
人はいかなるしるしによって、本当の確実な満足を見分けるのか?
死や苦痛や恥辱をどのくらいまで恐れるべきなのか?

「人生は短いのに、なぜ、それほどたくさんのことにやっきになるのか?」

「よれよれのぼろを着ても、がまんができて、人生の有為転変にもきちんと合わせられて、ひとり二役をしっくり務められる人を、私は称賛したい」

「<その勉強を、学問の披瀝ではなく、生活の規則として考えている人間か、そして自分自身に自分の原則に従う人間か>が問題なのです。
生活の流れこそ、われわれの思考の本当の鏡なのであります」

「・・・。それを信じてもらうべきものとしてではなく、自分の信じるものとして提示しているわけですわたしが目標としているのは、もっぱら、自己を発見することで、その自己が、なにかを新たに学んで変わるなら、明日は別の人間になっているかもしれません

「各人の心の奥を探ってみるならば、われわれの願いの大部分が他人を犠牲にすることで生まれ、はぐくまれていることに気づくはずだ
こんなことを考えていて、わたしはふと、自然というものは、こうした点に関しても、その普遍的な秩序に背馳していないのだと思ったのである。
というのも、自然哲学者たちは、各事物の生誕、発育、増加は、他の事物の変質や腐敗にほかならないと主張しているのだから」

「・・・したがって、それぞれのことがらの偶有性や状況から引き出される困難ゆえに、はたして何が最適なのかを見きわめて選択することができずに優柔不断となり、途方に暮れてしまうようなときに、もっとも確実なのは、たとえ、それ以外の考察からは、そうするように導かれなくても、とにかく名誉と正義が多い側を選ぶことだと思う
そしてまた、どちらが近道か見当がつかないというのなら、いつもまっすぐな道を選ぶことだと思う



このエセー、2月は、1を読んだだけですが、7まであります。

なので、エセーはまだまだ続く。

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

で夢のセミリタイアを。

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posted by エスカルジュニア at 09:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | ●セミリタ生活(少欲)
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