2018年09月02日

「虚栄と優越の諸快楽は、すべての真実で満足すべき享楽の原理であり基礎である完全な平静さと、めったに両立しない」

こんにちは

セミリタイア研究家


毎月読んだ本の中で面白かった本について
記録しています。

8月は7冊読みました。

ジャンル毎分類(2018年累計)

8月まで累計43冊

●セミリタイア生活 41冊(95.3%)

○真・善・美 34冊

○衣・食・住 7冊

●セミリタイア収入 2冊(4.6%)

○不動産 0冊

○紙の資産 0冊

○ビジネス 2冊


その内で面白かったのは、


「人間生活の悲惨と混乱との双方の大きな源泉は、ひとつの永久的境遇と他のそれとの違いを過大評価することから生じるように思われる。
貪欲は、貧困と富裕のちがいを過大評価し、野心は、私的な地位と公的な地位のちがいを、虚栄は、無名と広範な名声のちがいを過大評価する。
それらの誇張的な情念のうちのどれかの影響下にある人物は、かれのじっさいの境遇において悲惨であるだけでなく、しばしば、かれがそのように愚かにも感嘆する境遇に到達するために、社会の平和を乱そうという気持ちになる」

「真の幸福をひきだそうと期待する諸快楽は、ほとんどつねに、ささやかではあるが現実のわれわれの境遇において、われわれがいつでも手もとにわれわれの力のうちにもっている諸快楽と、おなじなのである。
虚栄と優越というつまらぬ快楽をのぞけば、もっとも高い地位が提供しうるほかのあらゆる快楽は、もっともささやかな地位においてさえ、そこに人身の自由さえあれば、われわれが見出しうるものなのである。
そして虚栄と優越の諸快楽は、すべての真実で満足すべき享楽の原理であり基礎である完全な平静さと、めったに両立しない。
しかも、われわれが目ざすすばらしい境遇において、それらの真実で満足すべき諸快楽が、われわれがこのようにひじょうに熱心に放棄しようとしているささやかな境遇においてとおなじ確実さをもって享受されうるということは、かならずしもつねにたしかではないのである」

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

で夢のセミリタイアを。

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posted by エスカルジュニア at 11:16 | Comment(4) | TrackBack(0) | ●アリリタ生活(少欲)
この記事へのコメント
こんな認識があるのに、にもかかわらずいまだに承認欲求を良いものとして扱うのはどういう事なんだろう?
宗教はそういうのを捨て去れとさんざん促しているのに
Posted by kfe at 2018年09月04日 20:44
コメントありがとうございます。人間のもつ様々な欲。それを利用する者がいて、一方では、それを捨て去れという者もいる。2500年前も今も変わらないのだから、2500年後も変わらないでしょうね。この構図が続く限り、ベーシック・インカムを導入したら人は働かなくなるとはならないのではないでしょうか?
Posted by エスカルジュニア at 2018年09月05日 11:19
まあなあ
全員が欲求捨て去ったら、ベーシックインカムも成り立たないもんな
誰も働かなくなって
Posted by kfe at 2018年09月07日 22:17
ベーシック・インカムの導入のみなら、財源のためにも人間の欲求は必要になりそうですが、AI奴隷化によるBI市場+ベーシック・インカムならば、労働はAI、その果実(消費)は人間となるので、仮に欲求を捨てる人が多くなっても、全体市場的にも財源的にも問題ないだろうと思っているのですが・・・。

Posted by エスカルジュニア at 2018年09月08日 14:46
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