2021年01月08日

「幸福」の目標地点を発見した。

こんにちは、

セミリタイア研究家


修正後の請願「幸福ー自由な生活(余暇)=真善美愛+人類の生長のための活動

この式の右辺「真善美愛」は、普遍、自然、人類への「学び」(インプット)であり、「人類の生長のための活動」は、普遍、人類、自然への「貢献」(アウトプット)である。

右辺全体を「人生の美しさ」ととらえると「真善美愛」は、「人生の美しさについての学び」であり、「人類の生長のための活動」は、「人生の美しさを目指す行動」となる。

ここで、エスカルジュニアの目指す「幸福」の目標地点について考えてみる。

「少欲による自由な生活(余暇)」度合いを上げる(執着を捨てる)ことで、左辺の「幸福」が上昇する分、右辺の「人生の美しさ」も上昇する。

執着を捨てること、つまり人生にとって不要な物を捨てていけば、身軽になっていく。
究極的には、すべての執着を捨てることができれば

「幸福ー自由な生活(余暇)=真善美愛+人類の生長のための活動」
 100 ー 0     =   100
となり、
「幸福」=「人生の美しさ」ということになる。

執着をすて、"正しく"普遍、自然、人類と一体になることが、幸福であるということになる。

ところで、「真善美愛」も「人類の生長のための活動」も貯めることはできないし、同じ状態でとどまることもない。
つまり、右辺全体は、形のあるものではなく、同じ状態でとどまることがない。
ということは、「」しか認識できないともいえる。

ならば「全ての執着を捨て、今を普遍、自然、人類のために生きることが幸福」であるということになる。
言い方を変えると『今を普遍的な「人生の美しさ」で生きることが幸福

もっと簡単にするなら、
幸福=今、正しく生きる

ということでもあり、今が連続的に続いていくので、もはや、今というより「正しく生きる」が常になる。
ならば、
「幸福=正しく生きる」
ということになる。

ここが、エスカルジュニアの目指す「幸福」の目標地点を示すことになる。

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

で夢のセミリタイアを。

バッド(下向き矢印)バッド(下向き矢印)バッド(下向き矢印)こちらもどうぞ

札幌で腸内会活動中です。







posted by エスカルジュニア at 09:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | ○「請願」と2030年の目標
2021年01月07日

執着を減らし続けること。

こんにちは、

セミリタイア研究家


今、自己に課す、そして社会に願う請願を修正している。

●自己に課す、そして社会に願う請願(2021年〜)
「幸福=自由な生活(余暇)+真善美愛+人類の生長のための活動」
     ↓
幸福ー自由な生活(余暇)=真善美愛+人類の生長のための活動」

修正後の左辺は「少欲による幸福な生き方」
「自由な生活(余暇)」を少欲へと縮小していくことは、執着を減らすことでもある。

執着の対象となるのは、物、お金等の有形のものや、名誉、地位等の無形のものとなる。

執着を減らした後でも、「幸福」感が一定つまり、あまり変化がないならば、少欲によるサイズダウンで「自由な生活(余暇)」が小さくなった分、「幸福」は上がる。

同時に、「人生の美しさ」は上昇することになる。

具体化、単純化してみると、
「幸福ー自由な生活(余暇)=真善美愛+人類の生長のための活動」
100ー   80    =    20 
          ↓
「幸福ー自由な生活(余暇)=真善美愛+人類の生長のための活動」
100ー   40    =    60 

執着を減らし、少欲により「自由な生活(余暇)」が小さくなった分、左辺の「幸福な生き方」は上がると同時に右辺の「人生の美しさ」も上がる。
「真善美愛」は、普遍、自然、人類への「学び」(インプット)であり、「人類の生長のための活動」は、普遍、人類、自然への「貢献」(アウトプット)である。

「少欲による自由な生活(余暇)」度合いを上げる(執着を捨てる)ことで、左辺の「幸福な生き方」が上昇し、同時に右辺の普遍、自然、人類への学び・貢献である「真善美愛+人類の生長のための活動」も上昇。

執着を捨て、身軽になった結果として「人生の美しさ」は上昇することになる。死の時に執着の対象が少ないために後悔が減る。利他的な人生になる。

「幸福な人生」と「人生の美しさ」を向上させるには、継続的に「執着」を減らし続けることによる、「少欲による自由な生活(余暇)」が重要なポイントになる。
エスカルジュニアは、「幸福な生き方、人生の美しさのあり方」について、加齢に比例して意識を高めていこうと・・・。
そのために、請願を修正することにしたのだが、その修正ポイントは「執着を減らし続けること」。

ここで、1つ疑問になるのは、執着を減らした後でも、「幸福」感が一定ということはあるのか?ということ。

「快楽(消費)」と「幸福」は似て非なる。

現代社会において、多くの人は、「快楽(消費)」による快楽(消費)生活の増大が「幸福」感と同義にさせられていると思う。

「快楽(消費)=幸福」の構造になっている限り、快楽増大・消費拡大のサイクルから逃れることができなくなる。

「快楽(消費)=幸福」の構造において、
「快楽(消費)ー快楽(消費)生活の増大=真善美愛+人類の生長のための活動」
  100  ー   100以上   =    0以下

その結果、利己的に偏る可能性がある。執着の対象が増大する。そして死、病、老によって「快楽(消費)」生活の増大が中断することで、後悔が残る。

さらにこの「快楽(消費)」の増大していく社会には、真の「幸福」の欠如と同時に、社会から「美しさ」が消えていくのでは・・・。

「快楽(消費)」が「幸福」と切り離されているならば、執着としての「快楽(消費)」を減らした後でも「幸福」感が一定ということはありえる。

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

で夢のセミリタイアを。

バッド(下向き矢印)バッド(下向き矢印)バッド(下向き矢印)こちらもどうぞ

札幌で腸内会活動中です。







posted by エスカルジュニア at 13:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | ○「請願」と2030年の目標
2021年01月06日

〇請願「幸福=自由な生活(余暇)+真善美愛+人類の生長のための活動」の修正

  ○請願『幸福ー自由な生活(余暇)=真善美愛+人類の生長のための活動』と2030年目標
〜目次(このページ下部)〜

「人はいつか死ぬ。だから人生は美しい」
「死」の存在によって、「生」の美しさ、はかなさ、有難さ、不思議さが浮き上がってくる。
「死」があるからこそ、日々行う選択に対し緊張感が生まれ、その選択から美しさが生まれる。
一方、「生」のためにおこなわれる、日々の繰り返し、改良の中から美しさが生まれる。

エスカルジュニアは、「幸福な生き方、人生の美しさのあり方」について、加齢に比例して意識を高めていこうと・・・。
つまり、死への接近によって客観的に低下していくことに対して主観的に上昇させていこうと・・・。
「幸福な生き方ができるように人生に向き合い、常に修正を加えていく」
「人生の美しさが現れるシーンへの対応の準備をし、できうる範囲で対応できるようにする」

去年までの自己に課す、そして社会に願う「請願」は「幸福=自由な生活(余暇)+真善美愛+人類の生長のための活動」だった。

これに、『「幸福な生き方、人生の美しさのあり方」について、加齢に比例して意識を高めていこうと・・・。』
いう分を反映させるために修正を加えていくことにする。

さて、「人生の美しさのあり方」と「幸福な生き方」とは、一見似ているようにも思える。

「人生の美しさ」と「幸福な生き方」はどういう違いがあるのだろうか?

「人生の美しさ」に、他者への配慮・関係性の意味あいが強いのならば、利他的であると同時に、自己犠牲的なニュアンスも含まれるのでは?
「人生の美しさ」に自己犠牲が含まれるなら、必ずしも「人生の美しさ=幸福な生き方」とはならないのではないか?

自己犠牲は、究極的には自分の死も含まれることになるから。

また、「人生の美しさ」は、見方、立場によって、残酷さにもなる。
たとえば過去の歴史や現代でも度々起こる、特殊な主従関係や宗教、愛国から生じる慣習や錯誤による美しさ、洗脳、強制から生じる美しさは、当人たちにとっては、「人生の美しさ」と感じるのかもしれないが、別の立場からは残酷さや恐怖にもなる。

なので、この特殊な「人生の美しさ」は、普遍的な「人生の美しさ」とはなりえないはずだ。

一方で「幸福な生き方」は、どうか?
「幸福な生き方」は、利己的・自利的に傾くことで他人の人生を踏み台にする可能性がある。

自己にとって「幸福な生き方」が、他人の人生を「不幸な人生」にしてしまう可能性がある。
特に弱肉強食的な時代下やゼロサムゲーム下においては顕著となりえる。
一方の側が「幸福」と感じる「承認」という相互行為も、本来的には、ゼロサムゲームなのでは?

ならば、「人生の美しさ」(利他的)と「幸福な生き方」(利己的)の両立は難しいのではないか?

エスカルジュニアは、少欲での「幸福な生き方」が、その両立につながっていくのではないかと思う。

「人生の美しさ」について自問自答しつづけることと、少欲での「幸福な生き方」を目指していくことが、「人生の幸福、美しさ」を両立することにつながるのではないか?

誤った「人生の美しさ」に陥らないためにも、普遍的な「人生の美しさ」について学び、模索し、実行する。
少欲での「幸福な生き方」は、利己を利他寄りにさせる。

なので、他者への配慮(利他的)を含んだ「人生の美しさ」は、少欲での「幸福な生き方」(利己的)と両立できるのではないか。

これらを取り入れて、請願を修正していく。
これまでの請願は、「幸福=自由な生活(余暇)+真善美愛+人類の生長のための活動」

「幸福」は、「幸福な生き方」であり、
「自由な生活(余暇)」は、「自由な生活」であり、
「真善美愛」は、「人生の美しさについての学び(インプット)」であり、
「人類の生長のための活動」は、「人生の美しさを目指す(アウトプット)」であると読み替えるならば、

幸福ー自由な生活(余暇)=真善美愛+人類の生長のための活動」へと変形させていくことで、これまでの「請願」が少し違ってみえてくる。

左辺は「幸福な生き方」、右辺は「人生の美しさ」となる。

左辺の「ー自由な生活(余暇)」の部分は、「少欲化による自由な生活」という意味で、左辺全体は「少欲による幸福な生き方」となる。

右辺の「真善美愛」は、「人生の美しさについての学び(インプット)」、「人類の生長のための活動」は、「人生の美しさを目指す(アウトプット)活動」という意味で、右辺全体は「人生の美しさについての学びと貢献」となる。

「幸福ー自由な生活(余暇)=真善美愛+人類の生長のための活動」

左辺の「少欲による幸福な生き方」と右辺の「人生の美しさについての学びと貢献」のバランスをとっていく。

ということで、自己に課す、そして社会に願う請願は、下記に修正する。

●自己に課す、そして社会に願う請願(2021年〜)

「幸福=自由な生活(余暇)+真善美愛+人類の生長のための活動」
     ↓
「幸福  ー 自由な生活(余暇)=真善美愛 +人類の生長のための活動」

とても難しいが、このバランスをとりつつ生きることが、「幸福かつ人生の美しさ」となるのでは?

修正前と後では、一見同じようにみえるが、修正後においては、「幸福な生き方」と「人生の美しさ」のバランス具合となる。
また、修正前の方が自己の「幸福」にフォーカスしている分、利己寄りであり、修正後の方が利他寄りといえるのかも。


 ○請願『幸福ー自由な生活(余暇)=真善美愛+人類の生長のための活動』と2030年目標〜目次〜
日付の古い順になります。



posted by エスカルジュニア at 11:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | ○「請願」と2030年の目標
2021年01月05日

穏やかな日々の流れるセミリタイア者に与えられる問い。

こんにちは、

セミリタイア研究家


生きているすべての人にとって、今が一番若い。

誰もが今後、老、病、死といったきていくことで必ず訪れ、避けて通ることの難しい、そしてつらい局面に出会う機会が現れる。

それは、自分自身だけではなく家族にも訪れる。

客観的に考えると、幸福感人生の美しさへの感じ方は、身体や脳の老化、病により、さらに死への接近によって低下していくのではないだろうか?

多くの人は、労働、娯楽、消費(快楽)といったことで、気を紛らわし、見ない、聞かない、言わない、考えないでやり過ごそうとしているようにも思える。

セミリタイア生活者は、労働や消費(快楽)での「人生暇つぶし」を減らしている。

それにより、自分の時間が増えると同時に、「四苦」という人生の問題を受け止める時間も増えることになる。

これに耐えられずに再び労働と消費(快楽)の生活に戻る人もいるだろう。

これに対して今後エスカルジュニアはどう対処していくか?
今は、セミリタイア生活をしている限り、受け止めることになると思うとしかいえない。

それでも、今後、対処していく方法として考えているのは、
「幸福な生き方、美しい人生のあり方」について、加齢に比例して意識を高めていこうとしているということ。
客観的に低下していくことに対して主観的に上昇させていこうと・・・。

「幸福な生き方ができるように人生に向き合い、常に修正を加えていく」
「人生の美しさが現れるシーンへの対応の準備をし、できうる範囲で対応できるようにする」

穏やかな日々が流れ、日常に感情の起伏の少ない、セミリタイア者に与えられる人生への問い。
万人に共通に与えられる「人生暇つぶし」の中での、人生への問いをセミリタイア者は、早い段階から受け止める機会を独自に与えられる。

人生への問いに対する準備期間が長くなる分、「後悔」を減らすことにつなげることができるのか?
それとも、「苦悩」の総量が増えることになるのか?

難しい問いであることは間違いない。
いつ、なにが、誰に、どこで、どのように現れるのか、全く分からないから。
ただ、いつ、なにが、誰に、どこで、どのように現れてもその瞬間を「最善」な状態にできるように、バージョンアップし続けられる日常を願う。

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

で夢のセミリタイアを。

バッド(下向き矢印)バッド(下向き矢印)バッド(下向き矢印)こちらもどうぞ

札幌で腸内会活動中です。







posted by エスカルジュニア at 09:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | ○セミリタイアとは?
2021年01月04日

2020年読書目標100冊の結果。

こんにちは、

セミリタイア研究家


毎年100冊読むことを
目指しています。

12月は2冊読みました。

2020年は、101冊。
100冊目標達成。

101冊の内訳としては、

●自由な生活(余暇)10冊(9.9%)

●真善美愛 5冊 (5.0%)

  ○課題図書 1冊

●人類の生長のための活動 86冊 (85.1%)

〇読書冊数
2016年は100冊
2017年は49冊
2018年は62冊
2019年は61冊
2020年は101冊

〇読書ノート
2016年読書ノートは156ページ
2017年読書ノートは135ページ
2018年読書ノートは270ページ
2019年読書ノートは203ページ
2020年読書ノートは305ページ

〇課題図書
1冊

といった結果でした。

2020年は、コロナ自粛で図書館の利用を中断していたため、6月までは8冊。

ところが、コロナにより、
「食」について「価値観の再創造」が発生。

その後、「価値観の再創造」のインプットのために読書冊数が急増。
7月からの半年で93冊読み、2020年の目標100冊達成。

読書ノートは、6冊305ページ。

今年は、「食」という特定のジャンルの読書に集中する結果となりました。
ただ、現在はコロナ自粛でリアル図書館の利用を中断中なので、状況を見ながらリアル図書館の利用を再開していきたいです。

2021年は、2020年の流れのまま、今年も読書100冊を目指していきたいと思います。

課題図書は、「食」についての「価値観の再創造」が落ち着いたら再開しようと・・・。

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

で夢のセミリタイアを。

バッド(下向き矢印)バッド(下向き矢印)バッド(下向き矢印)こちらもどうぞ







posted by エスカルジュニア at 09:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | ●アリリタ生活(少欲)