2021年01月14日

普遍的「善」とするとだれが決める?どうやってその人を選ぶ?」について。

こんにちは、

セミリタイア研究家


記事への質問「誰かがこれを普遍的真とするとか善とするとか美とすると決めなきゃいけないと思うがだれが決める?どうやってその人を選ぶ?」について。

普遍的「善」に対して、「だれが決める?どうやってその人を選ぶ?」について考えていく

前回の普遍的「美」と同様に

普遍的「善」についても、具体的に例を挙げてみたい。

例えば、「命を大切にする」という考え方は、道徳的で、一見、普遍的といえそうだ。

時代をさかのぼってみる。

殉死
戦(いくさ)
切腹
戦争

社会、時代によって、あるいは現代においてすら「命を大切にする」という考え方は果たして、本当に普遍的「善」といえるのか?

エスカルジュニアは、「命を大切にする」は、普遍的「善」と考える。(今回は、人間の「命」に限定)

でも、上記の例を見る限り、「命を大切にする」という考え方は、普遍的ではないようにも感じる。

「命」は個人にとって最も大切にもかかわらず、どうしてそうみえるのだろうか?

おそらく「命を大切にする」よりも上位の普遍的「善」が優先されているということではないだろうか?
つまり、「命を大切にする」以上の普遍的「善」が存在する、または存在していたということか?
ということは、複数の普遍的「善」が同時並行的に存在するということなのだろうか?
また、「命を大切にする」以上の普遍的「善」とは一体何か?
普遍的「善」である「命」を超える普遍的「善」は、どういった時に現れるのか?

について考え、最後に、普遍的「善」に対して、「だれが決める?どうやってその人を選ぶ?」について答えていく。

普遍的善である「命」を超える普遍的善が現れるときがある。
「命を大切にする」という普遍的善の基準を超える瞬間だ。

人は、自分の命を顧みない行動をする時がある。
たとえば、おぼれている子供を助けるために海へ飛び込んだ。
とか、ホームから転落した人を救おうとした。
といった時だ。

子供や家族、知人でもない人を助けようとする行動。

この神のようにさえみえる行動は、大切な自分の「命」を差し出す「(自己犠牲の)愛」といえる。
この「(自己犠牲の)愛」は、おぼれている子供を見た瞬間にその飛び込んだ人に現れた「命」を超える普遍的「善」なのではないか?
また、上記例にあった、殉死、戦(いくさ)、切腹はどうだろうか?
忠誠を誓った主君に対する「仁義」や「忠義」といった、封建時代の象徴的ともいえる、「命」を超える「善」だったのではないか?
封建時代にとっては、普遍的善としての「命を大切にする」と普遍的(と信じていた)善としての「仁」が同時並行的にあったのでは。

この普遍的善「(自己犠牲の)愛」や普遍的善「仁」が普遍的善「命」をこえる社会制度や瞬間があると考える。

普遍的「善」である「命を大切にする」をこえる「(自己犠牲の)愛」や「仁」は、特殊な状況下で生じやすく、時代、社会の変化で移り変わっていくので、普遍的とはいえないのではないか?

おそらく、これらは、普段は、普遍的「善」である「命を大切にする」の元にあって顔はださず、特殊な状況下で現れ、なくなることはないので、「(自己犠牲の)愛」も「仁」も普遍的といえる。
それは、支配者と被支配者の関係性がある限り、被支配者である人間の思考には、変わらない部分があると思うから。

一方で、この普遍的「善」である「命を大切にする」をこえる「(自己犠牲の)愛」や「仁」は、支配者に利用されやすいともいえる。

過去の歴史をみると、封建時代の「仁義」「忠義」の他にも戦争時に現れる「愛国」や資本主義制度下での「愛社」といったように支配者に作り出された「愛」によって、普遍的「善」である「命を大切にする」を超えるものと思い込まされるときがあるようだ。

この「(自己犠牲の)愛」や「仁」の部分が、自分にとって最も大切な「命」をこえる「」とも見え、かつその「神」の部分が、支配者に重なってみえてしまうのではないか。

広義には、大切なものを差し出す行為とも利他的ともいえる「(自己犠牲の)愛」や「仁」が支配者に利用され「命」に影響を与える可能性がある。

つまり、自分の最も大切な「命」を基準にして、社会的あるいは、瞬間的に表れる、普遍的「善」を自分が主体的に判断するのか、あるいは、支配者に利用されてしまうのかという領域があるのではないか。

また、善は、支配者に対抗するための被支配者による基準ならば、普遍的「善」は、複数存在するはずだ。
なぜなら、歴史を通じて、被支配者の方が圧倒的多数だから

多様な普遍的「善」や「善」が存在するのではないだろうか。

その多様な普遍的「善」の内には、普遍的「善」である「命を大切にする」という基準を超えるものも超えないものもあると思う。
また、普遍的ではない「善」も多数あると思う。

普遍的「善」は、だれがつくるのか、どうやって選ぶ?に戻る。

普遍的善を決めるのは(だれが決める?)は、人類(被支配者)。
どうやってその人を選ぶ?は、支配者が選ぶ。(敗者を決めるのは勝者だから)

多様な、普遍的「善」や普遍的ではない「善」を、人類(被支配者の歴史から)が用意するが、
状況によって、その複数の普遍的「善」や「善」の中から、どの「善」を選ぶかは、自分の選択になる。

普遍的「善」である「命を大切にする」を超えるもの、例えば「(自己犠牲の)愛」や「仁」等が、瞬間的に現れたときには、その普遍的「善」の中から、状況に応じて、自分が決め、自分が選ぶ。
その理由は、自分の大切な「命」が基準となるから。

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

で夢のセミリタイアを。

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2021年01月12日

前回記事への質問「誰かがこれを普遍的真とするとか善とするとか美とすると決めなきゃいけないと思うがだれが決める?どうやってその人を選ぶ?」について。


こんにちは、

セミリタイア研究家


前回記事への質問「誰かがこれを普遍的真とするとか善とするとか美とすると決めなきゃいけないと思うがだれが決める?どうやってその人を選ぶ?」について(その1)。

エスカルジュニアは、社会、制度で区切った一体としての「真善美」は普遍的ではないものの、真のみ、善のみ、美のみでは普遍的な部分があると考える。

質問への返答は2つある。
1つは、普遍的「真」、普遍的「善」、普遍的「美」それぞれに対して、「だれが決める?どうやってその人を選ぶ?」

もう1つは、社会、制度で区切った一体としての普遍的「真善美」が仮に誕生したとしたら、これに対して、「だれが決める?どうやってその人を選ぶ?」

この2つに分けることにする。

まず1つめの、普遍的「真」、普遍的「善」、普遍的「美」それぞれに対して、「だれが決める?どうやってその人を選ぶ?」について。

最初に、普遍的「美」について考えてみる。

普遍的「美」については、主体の主観による断片的なものが寄せ集まって、統合されていった結果が普遍的になっていくと考える。
そして「美」の対象は自然、音楽、絵画、建築、文学、精神性等幅広く存在する。

より普遍的「美」に近そうな「自然」を例にみてみたい。

例えば、富士山やナイアガラの滝やオーロラを万人が美しいと考えるならば、一見、普遍的といえそうだ。
もちろん、これらを美しいと思わない人もいるだろうし、これら富士山やナイアガラの滝やオーロラは、天変地異等によってなくなってしまうかもしれない。
同じ自然の美しさも社会によって、時代によって、制度によって違ってみえるかもしれない。
ならば、普遍的とはいえないかもしれない。

では、地球や、夜空の星の美しさは?
地球や、夜空の星はなくならないと考えるならば、この美しさは普遍的かもしれない。
でも、もし、地球がなくなってしまったとしたら・・・。
地球とともに人類も消滅してしまうので、消滅前の人類にとっては、地球の美しさは普遍的美だったといえそうだ。
(ただ、現実問題として、地球の美しさを地球の外からみることはできないので、別の方法を使うことになると思うが・・・)

地球が滅ぶときに、他の生き物も滅ぶことになるが、他の生き物も地球は美しかったと考えるのだろうか?
そう思っていたのならば、地球の美しさは、人類をこえた普遍的美だったともいえる。

(夜空の)星は、地球がなくなり、人類が滅亡しても存在するので、普遍的美かもしれない。
地球に住んでいた人類がいなくなった後、火星に住む火星人がいたとしたら、彼らにとっては、(夜空の)星は普遍的美かもしれない。
ただ、将来、火星の異常気象によって夜空がなくなってしまったら、美しさを認識できなくなってしまうため、普遍的美とはいえない。

場所的な制約、接触への制約、時間的な制約等により、普遍的な美があったとしてもその美へ到達できないことの方が圧倒的に多い。
自然の他にも「美」はいたるところにあり、その中に普遍的な美が含まれていると考える。

普遍的「美」は誰が決めるのか?に戻る。

美は、主観的で、主観によって考え方が違うし、社会、時代、制度によって変わってくる。
(主観の主体)自己
(社会、時代、制度)家族、北海道民、日本人、東アジア人、人類、生物(動植物)、火星人、宇宙人等。
封建制度下(鎌倉時代、室町時代、江戸時代)、資本主義制度下、未来の制度下、別の惑星に存在する制度下等。

質問元の記事では、人間に限定しており、そして、いただいた質問では、「誰が決める、どうやってその人を選ぶ?」ということは、人間の主観に限定した普遍的「美」についてということになる。
なので、『普遍的「美」を誰が決めるか?どうやってその人を選ぶか?』への答えは、普遍的美を決めるのは「人類」であり、さらにその人類も、「社会、時代、制度」をこえた人類といえる。

普遍的「美」といっても、人類限定という意味において、生物(動植物)、火星人、宇宙人等が除外されるため、厳密には、普遍的といえるかどうか分からないが、時代、社会を超えて多くの人類が合意する「美」は存在すると考える。

ただ、普遍的「美」への到達には、様々な制約があるために普遍的「美」へ到達することは困難を伴う。
隠れていて、なかなかその顔をみることができない。

歴史を振り返って見たときに思うことがある。怖いのは、普遍的「美」を装ったものを誰かが決めたり、その普遍的「美」を装ったものを決める人を正当な装いで選ぶことで、普遍的「美」を装って支配の象徴とされてしまう危険性があることだと思う。

長文になってしまったので、普遍的「真」、普遍的「善」それぞれに対して、「だれが決める?どうやってその人を選ぶ?」と

もう1つの、社会、制度で区切った一体としての普遍的「真善美」が仮に誕生したとしたら、これに対して、「だれが決める?どうやってその人を選ぶ?」については、次回以降へ。

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

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posted by エスカルジュニア at 16:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | ○「請願」と2030年の目標
2021年01月11日

普遍的な真善美はまだないと考える一番の理由。それは、今の世界が理想郷とはいえないからだ。

こんにちは、

セミリタイア研究家


について。

エスカルジュニアは、普遍的な「真善美」はまだないと考える。
支配者と被支配者の妥協により、「真善美」が利用されている限りにおいては、普遍的な「真善美」はないと思う。
つまり、社会、制度で区切った「真善美」は普遍的とはならず、ローカル的で特殊な「真善美」になる。
また、社会の変化によって一体化した「真善美」は、動的に変質していくため、普遍的な(一体化した)「真善美」は、存在しないと考える。

普遍的な真善美はまだないと考える一番の理由がある。
それは、今の世界が理想郷とはいえないからだ。

普遍的な真善美があるならば、理想郷ができているはずだ。
普遍的な真善美があるにもかかわらず、理想郷が実現できていないならば、人類の怠慢だ。

では、真・善・美に普遍性はないのだろうか?
真のみ、善のみ、美のみでの普遍性はそれぞれあるのではないかと思う。

まだ、2500年ほどの歴史の宗教が多く、支配の歴史も人類誕生から現在までの期間に比べてはるかに短いので、善も真も普遍的とはいえないかもしれないが、それでも、支配者、被支配者の存在が続くかぎりにおいては、支配者の真被支配者の善それぞれには、普遍的な部分が存在しているのでは?

その理由として、支配者である人間の思考、被支配者である人間の思考それぞれには、変わらない部分があると思うから。

美についても、自然に対する畏怖の中に、自然の作り出す美も含まれているならば、美に対しても、普遍的な部分は存在すると思う。

エスカルジュニアは、社会、制度で区切った一体としての「真善美」は普遍的ではないものの、真のみ、善のみ、美のみでは普遍的な部分があると考える。
ただ、仮に現時点で普遍的な真のみ、普遍的な善のみはすでに存在しているにもかかわらず、理想郷となっていないならば、それは、

その普遍的「真」と普遍的「善」の妥協点づくりに失敗しているだけなのか?

妥協点をつくる気などないのか?(理由は統治に不都合なため)

つまり理想郷が実現していないのは、
1、個別の真のみ、善のみにおいて普遍性がどちらも未だ完成していないか、どちらか一方のみが未完成。

2、個別の真のみ、善のみにおいて普遍性が完成していたとしたら、その普遍的「真」と普遍的「善」の妥協点づくりに失敗している。

3、個別の真のみ、善のみにおいて普遍性が完成していたとしたら、統治に不都合なため、その普遍的「真」と普遍的「善」の妥協点をつくる気がない。

のどれかではないだろうか?
いづれにしても、現時点において、普遍的な真善美はないということになる。

普遍的な真善美はあるのか?
という疑問に対して整理すると、

ローカル的な特殊の「真善美」は、普遍的な「真善美」とはいえない。
そして、社会の変化によって一体化した「真善美」は、動的に変質していくため、普遍的な(一体化した)「真善美」は、存在しないと考える。

ただ、真のみ、善のみ、美のみでの普遍性はあると考えるものの、普遍的「真」・普遍的「善」・普遍的「美」の統合がされていないため、普遍的とはいえない。

仮に統合されたとしても、その真善美が、社会のさらなる変化によって、動的に変質していくならば、まだ、普遍に至ったとはいえない。

ということは、『目標地点となる普遍的な真善美(正しい「人生の美しさ」)』は存在しないことになる。

なので、認識の差については、行き先不明のまま、目標地点へと出発することになる。

次回は、2つ目の疑問について考えていく。

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

で夢のセミリタイアを。

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posted by エスカルジュニア at 14:12 | Comment(2) | TrackBack(0) | ○「請願」と2030年の目標
2021年01月10日

普遍的な「真善美」というのはあるのか?


こんにちは、

セミリタイア研究家




この目標地点と現在地点との間の差の1つめは、『現時点での真善美についての認識』と『目標地点となる普遍的な真善美(正しい「人生の美しさ」)についての認識』の差。

この認識の差をはかる前に、2つの疑問について考えてみたい。

まずは、1つめの疑問について。

特殊な真善美(人生の美しさ)でなく、普遍的な真善美(「人生の美しさ」)とは何か?

『たとえば過去の歴史や現代でも度々起こる、特殊な主従関係や宗教、愛国から生じる慣習や錯誤による美しさ、洗脳、強制から生じる美しさは、当人たちにとっては、
「人生の美しさ」と感じるのかもしれないが、別の立場からは残酷さや恐怖にもなる。
なので、この特殊な真善美「人生の美しさ」は、普遍的な真善美「人生の美しさ」とはなりえないはずだ』
とした。

そもそも、普遍的な「真善美」というのはあるのか?

まずは、真善美とは?についてから。

真善美それぞれについて1つの切り口からみてみる。
その1つの切り口とは、支配者、被支配者との関係性

ー真理を欲するのは、他人や、社会を支配、コントロールするためといえる。

ーある哲学者は善悪等といった道徳は、弱者のルサンチマン(妬み)から生まれたという。敗者が自分達に勝ち目がある新しい基準をつくる。それが道徳であるとした。

ー芸術という概念が生まれたのは18世紀なので、普遍的というほどの歴史はない。美しさという概念はあったと思うが、美は主観的であり、それは普遍的といえるか?
  歴史において、文学や絵画、音楽は、支配者による支配のための道具として使われてきた。

真と善と美は、支配者と被支配者の関係性の中から利用されたり、生まれてきているといえそうだ。

支配者、被支配者それぞれの側から真と善への要求としては、あえて一言でいうならば、

真は、支配者の武器
善は、支配者に対抗するための被支配者による基準
といえる。

そこから、社会の変化によって真善美はどう変化していくのかを考えると、

ー社会が変わることで被支配者をコントロールするための武器である真理は変わっていく?

ー社会が変わっても、道徳である善悪の基準は弱者の手による。ならば社会変化による、敗因や、妬みの原因の変化によって基準も変わるなら、道徳、善は変わっていく?

ー社会が変わって、真や善が変化することで美への要求や主観は変わる?支配者は支配のための道具として芸術を利用するなら、支配者が変わるたびに美は変わっていく?

社会、時代、制度が地域的な広がりとともに変わっていく中で、真と善と美は妥協と影響を与えあいながら一体となり、さらに社会の内部で変化しつつ存在してきているのでは?

社会制度は、支配者の「真」と被支配者の「善」の妥協と中庸で作られていくのではないかと考える。

そう考える理由は、封建社会、資本主義社会といった社会、時代、制度の移り変わりの中にも、支配者と被支配者は必ず存在するからだ。

そして、封建社会、資本主義社会といった限定されたそれぞれの社会の中においてさえも、微調整がおこなわれてきた。

支配者の栄枯盛衰による交代劇による。

「真」の変化とともに「善」も変化する。

ならば、それぞれの社会、時代、制度毎に有効な独自の一体化した「真善美」は動的に存在するだろう。

支配者と被支配者が存在する限り。

だから
過去の社会状況における「真善美」は現代の視点では、特殊に感じる。
ある社会制度における「真善美」は別の社会制度では、特殊に感じる。
ことになるのでは?

そして、過去の歴史や現代でも度々起こる文明(社会、制度)の衝突は、異種の「真善美」の衝突で、それによって、特殊な「人生の美しさ」を浮かびあがらせるのでは?

ローカル的な特殊の「真善美」は、普遍的な「真善美」とはいえない。
そして、社会の変化によって一体化した「真善美」は、動的に変質していくため、普遍的な(一体化した)「真善美」は、存在しないと考える。

エスカルジュニアが普遍的な真善美は、ないと考える大きな理由がこのほかにもう1つある。

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

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posted by エスカルジュニア at 14:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | ○「請願」と2030年の目標
2021年01月09日

「幸福」の目標地点と現在地点との間にある2つの差と3つの疑問。

こんにちは、

セミリタイア研究家


究極的には、すべての執着を捨て、
幸福=正しく生きる
ここが、エスカルジュニアの目指す「幸福」の目標地点だとする。

目指す目標地点はみえた。

この「幸福」の目標地点とエスカルジュニアの現在地点との間には、当然、距離がある。
さて、現在地点とこの目標地点との間の距離はどの位あるのだろうか?

そう考えたときに2つの差と3つの疑問がある。

現在地点とこの目標地点との間の差の1つめは、
『現時点での真善美についての認識』と『目標地点となる普遍的な真善美(正しい「人生の美しさ」)についての認識』の差。

この認識の差をはかる前に、2つの疑問を解決する必要がありそうだ。

まず1つめの疑問。
普遍的な真善美(正しい「人生の美しさ」)とは何か?

そして2つめの疑問。
普遍的な真善美(正しい「人生の美しさ」)の判断の主体となる自分は、正しいといえるのか?

この2つの疑問は、正しい目標ポイント確定のための確認作業ともいえる。

普遍的な真善美(正しい「人生の美しさ」)という対象物の特定と、主体である自分の特定

この確認ができてはじめて、認識の差をはかることができる。

現在地点とこの目標地点との間の差のもう1つは、
『現時点での執着度合い』と『目標地点となる執着0』との差。

執着を0にすることは可能なのか?
という疑問も含む。

これらが2つの差と3つの疑問となる。

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

で夢のセミリタイアを。

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posted by エスカルジュニア at 12:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | ○「請願」と2030年の目標