2021年01月23日

1つめのルートは、普遍的「愛」と普遍的「個人的善」を考えることから、『「善」の統一』を目指す。

こんにちは、

セミリタイア研究家


個人レベルへと多様化、細分化の進んだ「善」を統一することを目指す。
その解決への糸口は、ミクロレベルである「個人的善」の中にあると考える。

『「善」の統一』のために、「個人的善」に再び戻ってみたい。

「個人的善」を出発点として2つの別のルートから『「善」の統一』への到達を目指していく。

別々のルートを通じて『「善」の統一』に到達することができれば、『「善」の統一』の実現性に対し、より近づくことができるかもしれない。

まず、1つめのルートは、普遍的「善」の1つと考える普遍的「愛」と普遍的「個人的善」を考えることから、『「善」の統一』を目指す。


普遍的「善」について考えたときに、「支配者と被支配者の関係」において、「(自己犠牲の)愛」は普遍的「善」の1つとした。
なので、「(自己犠牲の)愛」は普遍的といえる。

ここで、最初に普遍的「愛」について考えてみる。

「愛」は他にもいろいろある。
家族愛、隣人愛、性愛、自己愛、・・・といったように。

では、その中に普遍的「愛」はあるのだろうか?

「(自己)愛」も普遍的「愛」といえるのではないか。
「(自己)愛」は、最終的には、自己(人間)の命に通じるから。

これらの2つ「(自己)愛」「(自己犠牲の)愛」は普遍的と考える。

「(自己)愛」は、自分自身への愛という意味において、利己的
「(自己犠牲の)愛」は他人への愛という意味において、利他的

利己的な「(自己)愛」と利他的な「(自己犠牲の)愛」は、普遍的「愛」と考える。

次に、普遍的「個人的善」についてかんがえてみる。

「支配者と被支配者の関係」において、「命を大切にする」は、普遍的「善」と考えた。
「支配者と被支配者の関係」において、「命を大切にする」は、普遍的「善」であるならば、「支配者と被支配者の関係」において、「命を大切にする」は、普遍的「個人的善」である。

つまり、「命を大切にする」は、普遍的「個人的善」(「生存権」ともいえる)

・利己的な「(自己)愛」と利他的な「(自己犠牲の)愛」は、普遍的「愛」
・利他的な「(自己犠牲の)愛」は、普遍的「愛」であり、普遍的「善」
・「命を大切にする」は、普遍的「個人的善」
この3つを重ねてみる。

「(自己)愛」の極限には、自己の「命」があり、
「(自己犠牲の)愛」の極限にも、自己の「命」がある。

「利己」の極限には、自己の「命」があり、
「利他」の極限にも、自己の「命」がある。ともいいかえられる。

「命を大切にする」という普遍的「善」があるからこそ、自己の「命」を自ら奪うことを戒める「善」が存在する。

この戒めも、普遍的ならば、利己的な「(自己)愛」普遍的「善」といえる。

これらから「利己的(自己)愛」「利他的(自己犠牲の)愛」「命を大切にする」は、普遍的「善」であり、普遍的「個人的善」であると考える。

これら、普遍的「個人的善」が『「善」の統一』の主要な要素といえる。

さらに、普遍的「愛」と普遍的「善」である「命を大切にする」は、2つの「理念」に通じるのでは。

「利己的(自己)愛」「利他的(自己犠牲の)愛」=博愛
「利己的(自己)愛」「利他的(自己犠牲の)愛」のバランス=平等

一方、普遍的「善」である「命を大切にする」も、博愛的であり、平等的であると考える。


最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

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2021年01月21日

『「善」の統一』は可能なのか?

こんにちは、

セミリタイア研究家


グローバルな少数の支配者に対抗するために被支配者に必要なのは、「善」の統一、一本化。
『「善」の統一』

グローバルに統一された「善」の基準をつくり、グローバル資本家に対抗すべきだと考える。

ただ、ここで、1つの問いが生じる。
『「善」の統一』は可能なのか?

これまでの歴史では、実現されていないのに、「善」のグローバルな統一など果たしてできるのか?

キリスト教的善、イスラム教的善、仏教的善、神道的善・・・、
資本主義的善、共産主義的善、社会主義的善・・・、
さらには、ジェンダー的善、動物愛護的善、自然保護的善、○○的善・・・・等。
「個人的善」にまで、多様化し、分断されているのに統一などできるのか?

それでも、エスカルジュニアは、『「善」の統一』はできると考える。
これら個人レベルへ細分化の進んだ「善」を統一するにはどうすればいいのか?

その解決への糸口は、ミクロレベルである「個人的善」にあると考える。

そこで、『「善」の統一』のために、「個人的善」に再び戻ってみたい。

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

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2021年01月19日

前回記事への質問「それでは支配者は一人に決めないと、現状となにもかわならないというか、現状のキリスト教的真善美やイスラム教的真善美や仏教的真善美や資本主義的真善美、共産主義的真善美、○○的真善美、、、それぞれが自分らこそ普遍的だと主張し相争う世界ではないか?」への返答。

こんにちは、

セミリタイア研究家


前回記事に対しての質問「それでは支配者は一人に決めないと、現状となにもかわならないというか、現状のキリスト教的真善美やイスラム教的真善美や仏教的真善美や資本主義的真善美、共産主義的真善美、○○的真善美、、、それぞれが自分らこそ普遍的だと主張し相争う世界ではないか?」に返答したい。

この質問と同じ内容についての考えを、もう少し先の展開の中で記事にしていこうと思っていたが・・・、質問への返答を優先させていきたい。


「それぞれが自分らこそ普遍的だと主張し相争う世界ではないか?」
まさに、これが今の世界の現状といえる。

現在、グローバル資本主義により、世界が少数の支配者(勝者)、その他の被支配者(敗者)という状況になっている。

本来「善」は、「支配者に対抗するための被支配者による基準」なので、その他の被支配者(敗者)が支配者(グローバル資本家)に基準を「提示」するはずだ。

「善」を「提示」できているといえるのだろか?
「善」を「提示」できず、相争う世界ではないか?
もし、「提示」できていないとしたら、なぜ、「善」を「提示」できないのか?
「善」の「提示」方法に問題があるのではないだろうか?

これらの疑問について考えていく。
かつては、グローバルでない「善」で足りていた。
グローバルでない「善」でもある程度カバー出来ていたものが、敗者が増え続け、やがて、グローバルでない「善」では、カバーできなくなっていった。

増えた敗者に対しては、グローバルでない「善」を別の「善」の世界で生きる敗者に押し付けようとすることに向かっていった。

また、他の地域に存在する「善」を受け入れずに、争う方に向かっていった。

グローバルでない「善」同志の覇権争いの勝利により、グローバルな「善」を目指そうという方向だろう。

「善」=「真」の1つの弊害なのかも。
「真」が、支配の武器であるために、「善」も同じ性質を備えてしまうのか?

本来ならば、より、広域に対応できる「善」へ、普遍的になるような「善」へと改良していくべきだったのではないか?

ただ、この点について、グローバルでない「善」を弁明する3つのことがある。

まず1点目、敗者が増えることで、敗因が多様化することになる。
敗因が多様化すると、「善」のラインアップも増やさなければならなくなる。
だんだん、複雑な「善」になり、「善」離れに陥りかねない。
かといって、簡素化しようとすると、自己矛盾、自己否定に陥る恐れもある。

2点目、(支配者と被支配者の関係の)歴史の進行とともに、神がいなくなり、人間内部へ向かったことで、「善」が個人化してしまった。
その結果、敗者の「善」は「個人的真善美」レベルにまで多様化してしまった。

3点目、科学の進歩は、支配者の武器が増える方に貢献したが、「善」の進歩にはつながっていない。

その結果、科学の進歩からの「善」の分断

これまで、これら「善」の多様化、分断がおきていた。

一方、支配者は統一化に向かっている。

おそらく、支配者にとっては「善」の多様化、分断は、好都合だったのでは。
グローバルでない「善」が覇権争いや分断、多様化されている間に、いつの間にか支配者は国境をこえて少数になっていた。

「支配者と被支配者の関係」において、支配者の武器である「真」と被支配者の基準である「善」のかい離が拡がっていると考える。

かい離がそのまま現在の格差社会として急速に拡がっている。

グローバルな少数の支配者に対抗するための基準となるはずの「善」が、分断、多様化されていて、機能不全状態になっている。

なので、今必要なのは、

「善」の統一、一本化。
と考える。

質問の「支配者は一人に決めないと、現状となにもかわならないというか」
に考え方はとても近い(が真逆でもある)、現状を変えるために必要な方法は、『「善」を1つに決めること』

支配者のグローバル化にあわせて、グローバルに統一された「善」が基準をつくり対抗すべき。
それが「提示」方法となると考える。

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

で夢のセミリタイアを。

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2021年01月18日

2021年目標(セミリタイア生活11年間の振り返りと12年目の目標)

こんにちは、

セミリタイア研究家


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昨日、北海道神宮へ初詣にいってきました。
コロナで時期を遅らせたため、遅くなりました。
なので、例年に比べ遅くなりましたが、2020年の振り返りと今年の目標を加えて更新しておきたいと思います。

今年でセミリタイア生活12年目に入ります。
これまでの
セミリタイア生活11年間について。

12年の内、最初の2年は
妻を中心にお店を続けていました。
(その間、私は、自宅でデイトレードに
取り組み、その後は不動産投資に転身)
そして、東日本大震災(2011年3月11日)を境に
価値観の見直し、再創造をすることとしました。
その再創造のために「自分大学」に入学しようと。
(もちろん妄想の大学です)

2011年は、進路相談期間。
「自分大学」の「何学部」に入学したいのか?
そして1年間自問した末、
その「自分大学」で学びたいことが
見えてきました。

2つの課題について学びたい。

1つは、
「自立する(できる)ための仕組みづくり」
もう1つは、
「幸福とは」
について。

希望の「学部」が決まったので、
いよいよ2012年から「自分大学」へ
入学することになりました。

2014年までは
「自立する(できる)ための仕組みづくり」学習。
独学で、
2012年1月にFP3級を取得
2012年5月にFP2級を取得
2012年10月にFP1級学科
2013年2月にFP1級取得
2013年10月に消費生活アドバイザー1次通過
2014年3月に消費生活アドバイザー取得

そして、次の
2016年までは
独学で、「幸福とは」を探すための学習。
同時に「自立する(できる)ための仕組みづくり」を
実践学習。

そして2017年に札幌への移住実行。

学習の末、自己に課す、そして社会に願う1つの請願
「幸福=自由な生活(余暇)+真善美愛+人類の生長のための活動」
を立てた。

この流れの中で「1億総セミリタイア社会可能かも」との気付きから、
これをベーシック・インカムとベーシック・インカム市場を通じて考えていこうと。
そして2018年は、この「1億総セミリタイア社会」をもっと深堀りをしていこう。
同時にアウトプットをしていこう。と。

そんな矢先に発生したのが北海道地震。
この地震により「1億総セミリタイア社会」を実現するための、1つの切り口がみえることになりました。
その1つの切り口とは「エネルギー」
2018年後半は「エネルギー」についてのインプットが中心でした。
その結果としてでてきた方向性が「北海道再生可能エネルギー100%を目指せ」

2019年は2つを目標に掲げました。
1つ目は「1億総セミリタイア社会」をもっと深堀りをしていく。
2つ目は「エネルギー」「マネー」「食」を切り口として、「1億総セミリタイア社会」実現を目指し、マクロ的、ミクロ的両面からアプローチしていく。というものでした。
ところが、2019年は、セミリタイア生活のための収入源である不動産賃貸事業でトラブルが続出。
そのため、2019年の目標は、停滞。

2020年は、コロナ禍発生。
コロナにより、価値観の再創造が発生。

それにより、2019年の目標の内の1つである「食」が再び大きく深化し、
その流れから「セミリタイア夫婦流メガ健康法」をスタート。

2021年に入り請願を下記に修正。
「幸福ー自由な生活(余暇)=真善美愛+人類の生長のための活動」

2021年は、この請願を始点として、2011年からの問い「幸福とは?」についての答えを出していきたいと思います。

具体的な目標としては、
「セミリタイア夫婦流メガ健康法」
の3つのテーマをマクロ的、ミクロ的両面からアプローチし、インプット・アウトプットを進める。

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

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posted by エスカルジュニア at 10:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | ○自己紹介
2021年01月17日

普遍的「真」とするとだれが決める?どうやってその人を選ぶ?」について。

こんにちは、

セミリタイア研究家


記事への質問「誰かがこれを普遍的真とするとか善とするとか美とすると決めなきゃいけないと思うがだれが決める?どうやってその人を選ぶ?」について。


普遍的「真」とだれが決める?どうやってその人を選ぶ?」について考えていく。

普遍的「真」は、宇宙、自然等様々に存在するのかもしれないが、ここでは「支配者と被支配者の関係」内に限定した普遍的「真」について考える。

「善」は、「支配者に対抗するための被支配者による基準」
そして、普遍的「善」には、「命を大切にする」「(自己犠牲の)愛」や「仁」等があると考える。
被支配者は、支配者に対抗するため、支配者に対し、これら普遍的「善」や「善」を「提示」するだろう。

「真」は、「支配者の武器」
支配とは、「承認」の結果といえる。

2者の間の力関係により、一方が支配者、もう一方が被支配者となる。
被支配者が支配者を「承認」し、多数の中で最終的に残った者がその集団の支配者となる。
そして、「承認」を得るためには、先ほどの「提示」を全体的または部分的に受け入れることになるはずだ。

その「提示」には、被支配者による基準としての、普遍的「善」や「善」が含まれている可能性が高い。

「真」は、「支配者の武器」ということは、被支配者にとって利益があると思わせる何かが入っているはず。

ならば、普遍的「善」や「善」が「真」に含まれているはず。
「命を大切にする」「(自己犠牲の)愛」や「仁」等といった普遍的「善」や「善」だ。

これらが、「真」にふくまれている。
「真」に普遍的「善」が含まれるなら、その「真」の内の普遍的「善」の部分は、普遍的であるといえる。
なので、普遍的「真」は、あると考える。


では、普遍的「真」は、だれがつくるのか、どうやって選ぶ?に戻る。

普遍的「真」を決めるのは(だれが決める?)は、人類(被支配者たち)が基準として、普遍的「善」をつくり、それを普遍的「真」として受け入れるのは、支配者。
どうやってその人を選ぶ?は、人類(被支配者たち)が支配者を「承認」することによる。

支配者と被支配者の関係性がある限り、人間の思考には、変わらない部分があると思うから、「真」は普遍的「真」となりえる。

ただ、この「真」に、「真」や普遍的「真」を装った「偽」に置き換えられたり、「偽」が混ざったりする可能性もある。
「支配者の武器」ゆえに。

「偽」とまではいわなくても、歴史には、「善」=「真」といえる時代があった。

その「善」=「真」がそれぞれ普遍的かどうかの検証なく、次第に硬直化、絶対化されていき、(「支配者と被支配者の関係」以外に存在する)普遍的「真」が「偽」とされることもあった。


もうひとつ、普遍的「善」=普遍的「真」の証拠ともいえるのかもしれないが、「偽」ではないものの「支配者の武器」として利用される事例。

「善」による基準を逆利用しようというもの。
例えを1つ。
多くの宗教や哲学に「執着をなくす」や「少欲」の考えがある。
多くの「善」がいっているため、この概念は普遍的「善」かもしれない。
この考え方は、「善」としてなのか、あるいは、支配者に利用されてしまうのかのどちらにも転ぶ可能性がある。
「執着をなくす」や「少欲」によって、安い労働力として被支配者を統治のために利用できることにもつながるからだ。

これは、普遍的「善」=普遍的「真」が存在する証拠ともいえるのかもしれない。

ただ、こういった例が複数あるのは、善が基準づくりに失敗してきたのか、善は真の武器として逆利用されうるのか、善は真に忖度するのか。善という弱者(被支配者)の基準は実は勝者の基準なのか?

その結果が、現在の世界につながっているのか?

これらを防ぐために、「真」の真偽が問われるべきだが、「真」は支配者の武器としての有効性や効率性から、「偽」が混ざり込みやすいのではないか?

「真」や普遍的「真」を支配者が装っている場合には、被支配者は、疑う必要があると考える。
といっても、そもそも普遍的「善」を提示しているのが、被支配者なので、見破ることは難しいとも思う。

ここまで、記事への質問「誰かがこれを普遍的真とするとか善とするとか美とすると決めなきゃいけないと思うがだれが決める?どうやってその人を選ぶ?」について
普遍的美、普遍的善、普遍的真と3回に分けて、考えてきた。

そして、質問とは別にもう一つ、『社会、制度で区切った一体としての普遍的「真善美」が仮に誕生したとしたら、これに対して、「だれが決める?どうやってその人を選ぶ?」』に
ついても、もう少し先の展開の中で記事にしていきたいと思う。

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

で夢のセミリタイアを。

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posted by エスカルジュニア at 17:45 | Comment(2) | TrackBack(0) | ○「請願」と2030年の目標