こんにちは、
セミリタイア研究家
エスカルジュニアです。
では、資本、そしてベーシック・インカム市場が自由を求めることによって、人間にとって自由はどう変わっていくのか。
ベーシック・インカムはそもそも人間、個人に自由をもたらす。
全員に平等に配るといった点で、社会(平等)主義的であるが、個人に対しては、自由主義的である。
個人の自由が広がる。その理由。
ベーシック・インカムによって最低限の生活が保障されるため、労働をするかしないかといった選択が自由になる。
どこに住むかといった選択が自由になる。
どこで働くかといった選択が自由になる。
個人単位への支給のため、子供の数の多少は関係なくなる。
出産の選択が自由になる。
どこに住むかといった選択が自由になる。
どこで働くかといった選択が自由になる。
個人単位への支給のため、子供の数の多少は関係なくなる。
出産の選択が自由になる。
どうして個人にとって自由主義的であるにもかかわらず
社会(平等)主義的が怖がられるのだろうか?
おそらく自由を奪う独裁化と感じられるから。
それは、これまでの、独裁的社会主義国家が社会主義国家の1つのあり方だったから。
自由⇔束縛
は個人的なもの
は個人的なもの
自由⇔専制
は社会的なもの
は社会的なもの
自由⇔統制
は経済的なもの
は経済的なもの
個人にとっての自由という視点でみてみる。
資本主義と社会主義は、経済社会形態の違い。
自由=民主主義であり、専制=独裁であるとするなら、
民主主義的資本主義と独裁的資本主義が対立し、
民主主義的社会主義と独裁的社会主義が対立する。
歴史的に、社会主義陣営と資本主義陣営といった対立構造を作ってきた結果として、
本質は、民主主義的資本主義と独裁的社会主義の対立にもかかわらず、
資本主義と社会主義が対立してしまった。
現在では、独裁的社会主義国家が独裁的資本主義的国家に修正してきている。
仮に、民主主義的資本主義国家が民主主義的社会主義的国家に修正していくならば、
これまでの社会主義国家が資本主義的国家となり
これまでの資本主義国家が社会主義的国家となる
という経済社会形態上の立場が入れ替わることもありうるのかもしれない。
さらに踏み込んでいうならば、自由を「個人的なもの」としてとらえると、自由と束縛が対立する。
「個人的な自由のある民主主義的資本主義」や
「個人的な自由のない民主主義的資本主義」
がありうるし、
「個人的な自由のある独裁主義的社会主義」や
「個人的な自由のない独裁主義的社会主義」
もありうる。
「個人的な自由のない民主主義的資本主義」より
「個人的な自由のある独裁主義的社会主義」
の方が個人は自由かもしれない。
このことは、つまり
社会や経済が形式上「自由」であっても
その中の個人は自由ではないかも
しれないということ。
社会主義的であろうと、資本主義的であろうと、また
独裁的であろうと、民主主義的であろうと個人の自由の範囲は少しでも広いほうがいい。
と個人的には思う。
「1億総セミリタイア社会計画」は、個人にとっては自由の範囲を広げることとなる。
建設的なご意見ありましたら、こちらへ
●「1億総セミリタイア社会(日本ユートピア社会)計画」
第1話〜第69話はこちらでご覧いただけます。
○1億総セミリタイア社会計画の要となるのが、
「ベーシック・インカム市場」 (市場社会保障制度)です。
○1億総セミリタイア社会計画作成にあたり参考となった本をまとめています。